インドネシアの歴史
インドネシア共和国(インドネシアきょうわこく)、通称インドネシアは、東南アジア南部に位置する共和制国家。首都はジャワ島に位置するジャカルタ。5,110kmと東西に非常に長く、また世界最多の島嶼を抱える国である。赤道をまたがる1万8,110もの大小の島により構成されるが、この島の数は人工衛星の画像から判別したものであり、正確な島の数はインドネシア政府すら把握していない[2]。また、世界第4位の人口を擁し、2億3千万人以上の人が住んでいる。2009年のGDPは約5393億ドル(約48兆円)であり[3]、日本の10%程の経済規模である。
島々によって構成されている国家であるためその広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、ティモール島の東ティモール、カリマンタン島(ボルネオ島)のマレーシア、ニューギニア島のパプアニューギニアの3国だけである。海を隔てて近接している国は、パラオ、インド、フィリピン、シンガポール、マレーシア、オーストラリアである。
国名
正式名称は Republik Indonesia (インドネシア語: レプブリク・インドネシア)、略称は RI(インドネシア語: エル・イー)。 公式の英語表記はRepublic of Indonesia 、略称は Indonesia ([ˌɪndoʊˈniːziə] または [ˌɪndəˈniːʒə]) 。 日本語表記はインドネシア共和国、略称はインドネシア。漢字表記は印度尼西亜、略称は尼。
国名インドネシア(Indonesia)のネシア(nesia)は諸島を意味する接尾辞。ギリシャ語で島を意味するネソス (nesos) の複数形ネシオイ (nesioi) に由来する。1920年代に定着した。
国旗
上部に赤、下部に白の2色で構成されている。モナコ公国の国旗と類似しているが、インドネシアは2:3、モナコ公国は4:5と縦横比が異なる。ポーランドとも国旗が似ているが、インドネシアの場合は上が赤、下が白。ポーランドの場合は上が白、下が赤なので注意。
歴史
詳細は「インドネシアの歴史」を参照
インドネシアの先史時代は、様々な出土品から石器時代と金属器時代の二つに大きく分けることができる。
石器時代
人類が使用するいろいろの道具を石器で作っていた時代である。なお当時は、石器のみではなく、竹や木からの利器や器具、道具が作られていた。この石器時代をさらに旧石器時代、中石器時代、新石器時代、巨大石器時代の四つに分けることができる。
王国時代
のちにインドネシアとなる地域に住んでいたマレー系の人々は、紀元前1世紀頃から来航するインド商人の影響を受けてヒンドゥー教文化を取り入れ、5世紀頃から王国を建国していった。諸王国はインドと中国をつなぐ中継貿易の拠点として栄え、シュリーヴィジャヤ王国、クディリ王国、シンガサリ王国、マジャパヒト王国などの大国が興亡した。12世紀以降はムスリム商人がもたらしたイスラム教が広まり、人々のイスラム化が進んだ。
オランダ統治開始
16世紀になると香辛料貿易の利を求めてポルトガル、イギリス、オランダが相次いで来航し、17世紀にはバタヴィア(ジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社による覇権が確立された。
オランダ人は18世紀のマタラム王国の分割支配によりジャワ島、19世紀のアチェ戦争によりスマトラ島をほとんど支配するようになる。この結果、1799年にオランダ東インド会社が解散され、1800年にはポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島のすべてがオランダ領東インドとなり、ほぼ現在のインドネシアの領域全体がオランダ本国政府の直接統治下に入った。
1819年、イギリスのトーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目し、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールをイギリス東インド会社の勢力下に獲得したことにオランダが反発し、1824年、イギリス・オランダ両国が英蘭協約を締結。オランダ領東インドの領域が確定した。
独立運動
オランダによる過酷な植民地支配下で、20世紀初頭には東インド諸島の住民による民族意識がめばえた。ジャワ島では、1908年にブディ・ウトモが結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上をはかる活動に取り組んだ(その設立日である5月20日が「民族覚醒の日」と定められている)。
1910年代にはイスラームを紐帯とするサレカット・イスラームが東インドで大規模な大衆動員に成功し、1920年代にはインドネシア共産党が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立した。インドネシアの民族主義運動が最高潮を迎えるのは、1927年のスカルノによるインドネシア国民党の結成と、1928年の「青年の誓い」である。
インドネシア国民党の運動は民族の独立(ムルデカ)を掲げ、青年の誓いでは唯一の祖国・インドネシア、唯一の民族・インドネシア民族、唯一の言語・インドネシア語が高らかに宣言された。しかし、インドネシア共産党は1927年末から1928年にかけて反乱を起こしたことで政府により弾圧され、スカルノやハッタが主導する民族主義運動も、オランダの植民地政府によって非合法化された。スカルノらの民族主義運動家はオランダにより逮捕され、拷問を受けた末に長く流刑生活を送ることになり、以後の民族主義運動は冬の時代をむかえることになった。
日本軍政
オランダの植民地支配が1942年の日本軍の東インド一帯への侵攻によって瓦解し、東インドは日本陸軍の今村均中将率いる軍政下に置かれ、台湾支配のノウハウをインドネシアに応用した。日本はインドネシア人に対する緩和政策を基本とし、大東亜政略指導大綱にもとづき東インドを大日本帝国領土とし軍政を敷くものの、しかるべき後に独立させる方針を決定した。
まず日本はオランダに囚われていたスカルノやハッタらを解放し、日本軍政への協力を求めた。スカルノ、ハッタは日本軍政当局による人員、資源などの動員に協力しながら、与えられた公的ポストを活用して民衆の民族意識を鼓舞し、またこれに対し日本軍政当局の一部も協力した。これに併せて日本はオランダ 支配下で迫害されていたイスラム教の存在を認めた他、オランダによる愚民化政策を受けてこれまで行われていなかった、一般国民に対する初等教育から高等教育に至る教育制度の充実を行い、インドネシア語と日本語による教育を行った。
また、日本は1943年中盤以降のアジア・太平洋地域における戦局悪化の趨勢を受けてジャワ、スマトラ、バリの現地住民の武装化を決定し、募集した インドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した。それらの青年層を中心に、ジャワでは司令官以下すべての将兵がインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍(ペタ)が発足した。こうして日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数が、後の独立戦争期に結成される正規、非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たすことになった。
同時期に日本はインドネシアの独立の方針を推し進め、1944年9月にはインドネシア国旗の掲揚と国歌の斉唱を解禁した他、1945年3月には独立準備委員会を発足させ、同年8月19日にスカルノとハッタ、ラジマンによって独立宣言するという方針を決定し、日本もこれを承認した。
独立
しかし、1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日、ジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地で独立を宣言した(独立宣言文の日付は皇紀を用いている)。しかし、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦うことを余儀なくされた。インドネシア人の側は、外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派と、オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする闘争派との主導権争いにより、かならずしも足並みは揃っていなかったが、戦前の峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高かった。
独立宣言後に発足した正規軍だけでなく、各地でインドネシア人の各勢力が独自の非正規の軍事組織を結成し、降伏後に日本軍兵器庫から奪ったり、連合国軍に対する降伏を潔しとしない日本軍人の一部がばら撒いたり横流しした武器や弾薬で武装化した。これらの銃器の他にも、刀剣、竹槍、棍棒、毒矢などを調達し農村まで撤退してのゲリラ戦や、都市部での治安を悪化させるなど様々な抵抗戦によって反撃した。
また、この独立戦争には、スカルノやハッタらインドネシアの民族独立主義者の理念に共感し、軍籍を離脱した一部の日本人2,000人(軍人と軍属)も加わって最前列に立って戦い、その結果1,000人が命を落とした。
他方でインドネシア政府は第三国(イギリスやオーストラリア、アメリカ合衆国)などに外交使節団を派遣してインドネシア独立を国際的にアピールし、また、発足したばかりの国際連合にも仲介団の派遣を依頼して、外交的な勝利にむけても尽力した。
こうした武力闘争と外交努力の結果、1949年12月のハーグ円卓会議で、インドネシアはオランダからの独立承認を得ることに成功した。
スカルノ時代
インドネシア初代大統領スカルノ
オランダからの独立後、インドネシアは憲法(1950年憲法)を制定し、議会制民主主義の導入を試みた(1955年に初の議会総選挙を 実施)。1956年3月20日、第2次アリ・サストロアミジョヨ内閣が成立した。国民党、マシュミ、NU の3政党連立内閣であって、インドネシア社会党(PSI)、共産党は入閣していない。この内閣は5カ年計画を立てた。その長期計画は、西イリアン帰属闘 争、、地方自治体設置、地方国民議会議員選挙実施、労働者に対する労働環境改善、国家予算の収支バランスの調整、植民地経済から国民の利益に基づく国民経済への移行により、国家財政の健全化を図ることなどである。[5]
しかし、民族的にも宗教的にもイデオロギー的にも多様なインドネシアで、各派の利害を調整することは難しく、議会制は機能しなかった。また、1950年代後半には中央政府に公然と反旗を翻す地方反乱が発生し、インドネシアは国家の分裂の危機に直面した。
この時期、1950年憲法の下で権限を制約されていたスカルノ大統領は、国家の危機を克服するため、1959年7月5日、大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。ほぼ同時期に国会を解散して、以後の議員を任命制とし、政党の活動も大きく制限した。スカルノによる「指導される民主主義」体制の発足である。この構想は激しい抵抗を受け、中部・北・南スマトラ、南カリマンタン・北スラウェシのように国内は分裂した。ついに、スカルノはインドネシア全土に対し、戒厳令を出した[6]。
スカルノは、政治勢力として台頭しつつあった国軍を牽制するためにインドネシア共産党に接近し、国軍と共産党の反目を利用しながら、国政における自身の主導権を維持しようとした。この時期さかんにスカルノが喧伝した「ナサコム(NASAKOM)」は、「ナショナリズム(Nasionalisme)、宗教(Agama)、共産主義(Komunisme)」の各勢力が一致団結して国難に対処しようというスローガンだった。
スカルノの「指導される民主主義」は、1965年の9月30日事件によって終わりを告げた。国軍と共産党の権力闘争が引き金となって発生したこの事件は、スカルノからスハルトへの権力委譲と、インドネシア共産党の崩壊という帰結を招いた(これ以後、インドネシアでは今日に至るまで、共産党は非合法化されている)。
スハルト時代
1968年3月に正式に大統領に就任したスハルトは、スカルノの急進的なナショナリズム路線を修正し、西側諸国との関係を修復、スカルノ時代と対比させ、自身の政権を「新体制 (Orde Baru) 」と呼んだ。スハルトはスカルノと同様に、あるいはそれ以上に独裁的な権力を行使して国家建設を進め、以後30年に及ぶ長期政権を担った。
その間の強引な開発政策は開発独裁と批判されつつも、インフラストラクチャーの充実や工業化などにより一定の経済発展を達成することに成功した。
その一方で、東ティモール、アチェ、イリアンジャヤなどの独立運動に対しては厳しい弾圧を加えた。
スハルト以後
ハビビ政権
1998年、アジア通貨危機に端を発するインドネシア経済崩壊のなかでスハルト政権は崩壊、インドネシアは民主化の時代を迎えて今日に至っている。スハルト政権末期の副大統領だったユスフ・ハビビが大統領に就任し、民主化を要求する急進派の機先を制する形で、民主化・分権化の諸案を実行した。スハルト時代に政権を支えたゴルカル、スハルト体制下で存続を許された2つの野党(インドネシア民主党、開発統一党)以外の政党の結成も自由化され、1999年6月、総選挙が実施された。
ワヒド政権
その結果、同年10月、インドネシア最大のイスラーム系団体ナフダトゥル・ウラマーの元議長、ワヒド(国民覚醒党)が新大統領(第4代)に就任した。メガワティ・スカルノプトリは副大統領に選ばれた。しかし、2001年7月、ワヒド政権は議会の信任を失って解任された。
メガワティ政権・ユドヨノ政権
代わって、闘争民主党のメガワティ政権が発足した。現在は、2004年4月に同国初の直接選挙で選ばれた第6代ユドヨノが2009年に60%の得票を得て再選され、2014年までの大統領の任にある(歴代の大統領については、インドネシアの大統領一覧を参照
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Terakhir Diupdate (Kamis, 24 Februari 2011 15:44)















